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夫と息子が夫の初恋を選んだ日、私は家族をやめた
夫と息子が夫の初恋を選んだ日、私は家族をやめた
Penulis: 星宮 凪

第1話  ただのお弁当

Penulis: 星宮 凪
冬真は離婚届を手に取らなかった。

向かいの椅子に深く腰を下ろし、私の顔を見上げただけだった。

「昨日のことで、まだ怒っているんですか?」

会議の席と変わらない、冷静な口調だった。

「怒ってはいません」

私たちは結婚して九年になる。

それでも、二人きりのときでさえ敬語を崩したことは一度もなかった。

それが礼儀なのだと、以前は思っていた。

今なら分かる。

私たちは最初から、夫婦になれるほど近づいたことがなかったのだ。

昨日も、いつもどおり午前五時半に起きた。

冬真は胃が弱いため、脂の多いものは避ける。

午後に重要な商談がある日は、においの強いおかずは避ける。

悠生は野菜が苦手なので、細かく刻んで卵焼きに混ぜる。

季節の行事がある日は、蓋を開けた瞬間に笑ってくれるよう、彩りにも時間をかけた。

そうして毎朝作る二つのお弁当を、当たり前のように二人へ渡してきた。

けれど昨日、冬真は包みを見ただけで言った。

「今日は必要ありません。昼は絵里さんと会食です」

「昨日のうちに、教えていただけませんでしたか?」

「今朝決まったことです。お弁当一つで、そんな顔をしないでください」

何も言わず、差し出した手を引いた。

その様子を見ていた悠生が、自分のお弁当まで押し返してきた。

「パパが持っていかないなら、僕もいらない」

「悠生、今日は給食がない日ですよ」

「大丈夫。絵里ちゃんが、かわいいお弁当を届けてくれるって」

初めて聞く話だった。

「冬真さんは、ご存じだったんですか?」

「昨日、悠生から聞きました」

「それなら、なぜ教えてくださらなかったんです?」

「わざわざ報告するほどのことではないでしょう」

冬真は腕時計を確かめ、椅子から立ち上がった。

「絵里さんは帰国したばかりで忙しいのに、悠生のために時間を作ってくれています。真帆も感謝してください」

朝倉絵里(あさくら えり)。

冬真が大学時代に交際していた、初恋の相手だった。

「絵里さんは、いつから悠生にお弁当を届けているんですか?」

「前にも何度かありました。それが何か問題ですか?」

「母親の私が知らなくても?」

冬真は、わずかに息を吐いた。

「家にいる真帆には分からないでしょうが、僕たちは新規事業の準備で忙しいんです」

「そのことと、悠生のお弁当に何の関係があるんです?」

「何でも悪いほうに受け取るのは、やめてください」

悠生は私たちの会話など気にせず、玄関で靴を履いていた。

「絵里ちゃんのお弁当、すごいんだよ。動物の顔になってて、みんなも見に来るの」

「私のお弁当は?」

「いつも同じで、つまらない」

五歳の子どもの言葉だった。

それでも、胸の奥に小さな棘が刺さった。

冬真は悠生をたしなめる代わりに、玄関の扉を開けた。

「そろそろ行きます。遅刻しますよ」

父子が出ていったあと、二つのお弁当を冷蔵庫にしまった。

冷蔵庫の扉を閉めたとき、もうこの家で私にできることは何もないのだと思った。

翌朝、署名済みの離婚届を冬真の前に置いた。

「悠生はどうするんです?」

「親権は冬真さんに譲ります。離婚の条件については、弁護士から連絡してもらいます」

冬真の視線が、ようやく書類から私へ上がった。

「本気で言っているんですか?」

「はい」

「お弁当が要らないと言っただけでしょう」

「そうですね」

静かにうなずいた。

「冬真さんにとっては、ただのお弁当です」
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